夜中に目が覚めてkobo formaを取り出したものの、あいにくそのとき読んでたのがカポーティの「誕生日の子どもたち」で、つまらなくて断念したばかり。カポーティってこんなにつまんなかったっけ、次は何を読もうか、と考えつつ、眠りに落ちたところでした。Formaの中にはまだあまり本を入れてないのだけど、村上春樹のいくつかは読み直そうといれてました。では、と「ねじまき鳥クロニクル」を開いたものの、あんまりこれはそんなときに読むものじゃない。
ではと「スプートニクの恋人」を開きました。これはなにかとてもいい。1回目に読んだときも思いましたが、これは長編だけど、ねじまき鳥とは違って割とすんなり書けてさくっとできたもの、ではないかと。
不思議なくらい、こんな目がさえた夜中にはまります。その夜のあとも読み続けて数日で終了。
この小説、たぶん、キーとなるのは最後に出てくるこの部分。万引きした子、あろうことか学校の先生である「ぼく」が逢い引きを重ねている母親の子供であるにんじんくんを連絡を受けて引き取って喫茶店に入り、ひとことも話そうとしない彼を前にして、こんな話をします。
ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、水が海に流れ込んでいくのを眺めたことはある?
答えるわけもないにんじんに、こう続けます。
たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じりあっていくのを見ているのが、どうしてこんなにさびしいのか、ぼくにはよくわからない。でも本当にそうなんだ。
妙に無駄な繰り返しの多いこのフレーズ、この物語の底辺に流れているのは、こんな感覚。
奇妙な、だけど実はとても大事だった女友達のすみれがギリシャで急に失踪してしまい、彼女を探して小さな島にまで、すみれが憧れを抱いている同室だった先輩、ミュウに会います。そこで彼女が語る、「泣こうとして泣けないでただ体を震わせている」すみれを抱き寄せたとき、感じたことは
さびしくて怯えて、誰かの温もりをほしがっているのだ。松の枝にしがみついている子猫のように。
こういう物語です。とくにいくつもの彼らしい気の効いた表現が秀逸です。たとえばこんなの。
ペテルスブルグ行きの列車がやってくる前に、年老いた踏み切り番が踏切をかたことと締めるみたいに。
そういえば、すみれは文章を書きます。いくらでも書くことができる、だけど、それは
「ときどき、異なった趣味と疾病を有する何人かの頑固な婦人たちが一堂に会して、ろくすっぽくちもきかずにつくりあげたパッチワークみたい」
なもので、ひとつも小説にはならない。そんなすみれに、「ぼく」はこんな中国の門の話をします。
人々は荷車を引いて古戦場に行き、そこにちらばったり埋もれたりしている白骨を集めれるだけ集めてきた。歴史のある国だから古戦場には不自由しない。そして待ちの入り口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊をすることによって、死んだ戦士たちが自分たちの街を守ってくれるように望んだからだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ暖かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ。」
すみれは黙って話の続きを待っていた。
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱいに集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語はこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」
「つまり、わたしもどこかから自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない、ということ?」
ぼくはうなずいた。
「そして温かい血が流されなくてはならない」
これが生きた物語、どこかで犬が連れてこられて温かい血が流されたのかもしれません。さくっとできたように見える、と勝手なことを読者はいうわけですが。
物語というのは不思議なものです。特に村上春樹のを読むと、そのことをいつも考えます。夜中に目が覚めるのは、そんなに悪いことじゃないかもしれない。
老ネコでも追加しておこう。
ではと「スプートニクの恋人」を開きました。これはなにかとてもいい。1回目に読んだときも思いましたが、これは長編だけど、ねじまき鳥とは違って割とすんなり書けてさくっとできたもの、ではないかと。
不思議なくらい、こんな目がさえた夜中にはまります。その夜のあとも読み続けて数日で終了。
この小説、たぶん、キーとなるのは最後に出てくるこの部分。万引きした子、あろうことか学校の先生である「ぼく」が逢い引きを重ねている母親の子供であるにんじんくんを連絡を受けて引き取って喫茶店に入り、ひとことも話そうとしない彼を前にして、こんな話をします。
ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、水が海に流れ込んでいくのを眺めたことはある?
答えるわけもないにんじんに、こう続けます。
たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じりあっていくのを見ているのが、どうしてこんなにさびしいのか、ぼくにはよくわからない。でも本当にそうなんだ。
妙に無駄な繰り返しの多いこのフレーズ、この物語の底辺に流れているのは、こんな感覚。
奇妙な、だけど実はとても大事だった女友達のすみれがギリシャで急に失踪してしまい、彼女を探して小さな島にまで、すみれが憧れを抱いている同室だった先輩、ミュウに会います。そこで彼女が語る、「泣こうとして泣けないでただ体を震わせている」すみれを抱き寄せたとき、感じたことは
さびしくて怯えて、誰かの温もりをほしがっているのだ。松の枝にしがみついている子猫のように。
こういう物語です。とくにいくつもの彼らしい気の効いた表現が秀逸です。たとえばこんなの。
ペテルスブルグ行きの列車がやってくる前に、年老いた踏み切り番が踏切をかたことと締めるみたいに。
そういえば、すみれは文章を書きます。いくらでも書くことができる、だけど、それは
「ときどき、異なった趣味と疾病を有する何人かの頑固な婦人たちが一堂に会して、ろくすっぽくちもきかずにつくりあげたパッチワークみたい」
なもので、ひとつも小説にはならない。そんなすみれに、「ぼく」はこんな中国の門の話をします。
人々は荷車を引いて古戦場に行き、そこにちらばったり埋もれたりしている白骨を集めれるだけ集めてきた。歴史のある国だから古戦場には不自由しない。そして待ちの入り口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊をすることによって、死んだ戦士たちが自分たちの街を守ってくれるように望んだからだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ暖かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ。」
すみれは黙って話の続きを待っていた。
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱいに集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語はこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」
「つまり、わたしもどこかから自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない、ということ?」
ぼくはうなずいた。
「そして温かい血が流されなくてはならない」
これが生きた物語、どこかで犬が連れてこられて温かい血が流されたのかもしれません。さくっとできたように見える、と勝手なことを読者はいうわけですが。
物語というのは不思議なものです。特に村上春樹のを読むと、そのことをいつも考えます。夜中に目が覚めるのは、そんなに悪いことじゃないかもしれない。
老ネコでも追加しておこう。