2020年6月30日火曜日

プラスミドDNAを用いたワクチン臨床試験か・・

ほんとにやるのか、プラスミドDNAワクチン。確かに治療薬が一斉に臨床試験に入ってるものの、特効薬的なのはなさそう。組み合わせならあるかもしれないですが。ならばワクチンというわけで、ワクチンの開発競争が世界中で始まってます。だけど、そもそもプラスミドDNAを注射してのワクチンは、これまで世界中で承認されたことがないはず。この機会にプラスミドDNAワクチン自体の試験をやってしまおうということでしょうか。

今回の報道ではまずは大阪市立大の30名くらいの医療関係者に対して、安全性と効果を確かめるということなので、COVID19に対する抗体ができるかどうかを調べるという試験なのかな。

しかし、日々、プラスミドDNAを扱っている研究者としては、これを自分に注射する気にはなりません。確かに簡単で、たとえばGFPを発現するプラスミドDNAをマウスの筋肉に打つと、緑に光る細胞が出てくるので抗体ができることはあるでしょう。だけど問題は、細胞内に取り込まれたDNAは一定の割合でゲノムの中に取り込まれること。

ものすごく低い確率なので、それが最終的にガン抑制遺伝子を破壊したり、大事な機能を持つゲノムを破壊する確率はかなり低いとは思います。だけど、それがCOVID19で死亡するリスクに比べて無視できるくらい低いかはやってみないとわかりません。

本来はウイルス断片をコードするRNAを注射してワクチンにするのが一番安全です。RNAはあと一段階で蛋白になるので効率も高い。なによりも大事なのはRNAはゲノムに組み込まれることもありません。だけどそれは人に使うレベルに持っていくには技術的なハードルが高く、またすでに米国ではビッグファームによるRNAワクチンの試験がはじまっています。これを作るのは技術的に難しすぎるし、おそらく特許に引っかかって儲からず、準備する時間もない。

それで産業化するために誰もやろうとしないプラスミドDNAワクチンをやってみよう、ということでしょう。だけど、さすがに開発元の阪大では臨床試験をやりたがらない。万が一のことを考えます。

だから近くで、市や大阪府のいうことを聞かざるをえず、またおそらくはうるさ方の少ない(想像)大阪市立大でやることにした、ということかと察します。この、特定の大学の医療関係者に、というところがどうも、うさんくさい。もちろん開発者ご本人も実際にDNAワクチンを打っておられるのでしょうが、自分の大学にはそれを説得できなかったわけで、普通に考えると、これはかなり危ない気がします。

いわゆる遺伝子治療においても、DNAの細胞内への導入が行われます。ただ、これらは、他に助かるめどのない、極めて重篤な症状にほぼ限定されています。それらの臨床試験は、健康な人においてなされているとは、まず思えません。かなり人道的な問題が発生します。

今回開発されたDNAワクチンはさすがに短期的な安全性は大丈夫でしょう。だけど一番気になる長期的な副作用は、10年、20年のスケールでしかわからないので、その様子待ちです。そもそも、この試験、許されるのかな。

2020年6月28日日曜日

米国の悲劇

COVID-19感染が止まりません。南半球はこれから真冬になるので、特にブラジルなど南米において増加率が日に日に増えているのは、やむをえないのかもしれません。北半球で新規感染者数はほとんどの国で減少していますが、ざっと見たところ、唯一の例外は米国。ここでは今月の初旬は一日の新規感染者数が2万人台でしたが、この2週間農地に3万人台を軽く超えて、この3日は4万人台に達していて上昇気配です。
Our World in Data, https://ourworldindata.org/covid-cases のグラフです。

これから夏になる北半球でこれだけ増えているので、これが秋に入り冬に向かう頃には、一体どんな情況になっているか、そら恐ろしいくらいです。すでにベトナム戦争での総死者数58220人よりも新型コロナでの死者数は遙かに超えていて、12万人を上回って、2倍以上の犠牲者を出す事態になっています。

第二次世界大戦において米国での死者数は29万人ほどなので、その半数にも近づいてきました。さらにこれは、戦争時よりもごく短い時間、わずか3ヶ月間くらいに起きたことで、米国史上で最悪の悲劇になりつつあります。

各国の対策によって感染者数と死者数が大きく異なることからも、この感染症が国の施策によって大きく左右されていることがわかります。陸続きのカナダでも、前に書いたようにモントリオールを中心とした被害が広まってましたが、夏に向かうにつれてはっきりとした減少傾向にあることがわかります。こちらも新規感染者数で
総数においても、人口比でもずっと米国より少ないことがわかります。

政治家を選ぶときのほんのちょっとした一人一人の行動がどれほど国家の大惨事を引き起こすかを、米国の悲劇は如実に示しています。選挙戦最終夜にLady Gagaがでてきて、投票する気が失せたのはわかりますが、自分たちの命に関わることは、真剣に行動しなければなりません。かつて、ドイツ国民がヒットラーを民主的に選択した結果、歴史に残る大惨事を起こしたことを思い出します。

ただ、今はそう書いていても、いつ日本が同じようになるかもわかりません。社会の舵取りがいまでは手動運転になっており、腕前がストレートに出てきます。アジアの中で決して低いわけではない日本の感染者数と死亡者数が、今後、さらにどうなるのか、毎日夕方にはどきどきしながらニュースを見ています。

2020年6月27日土曜日

もったいない

人が儲けたお金の使い方にどうこういうのは野暮というものですが、100億円という金額をサイエンスのために出そうというのなら、もっと有効な出し方があろうにと思ってしまいます。柳井氏の京大2ノーベル賞受賞者への寄付の話。それなりに成果は出すでしょうが、これから新しいサイエンスを生むような投資ではありません。ご本人が言っておられるように、安いiPSの作り方などと聞くとがっかりします。

そもそもそういうことに良い人材が集まるわけもないし、そんな研究を行っても、若者の次の職探しは厳しい。何か一つの分野に対して大きなお金を出すということを文科省はよくやってますが、これで採用された若手が任期が切れて次のポストが見つからず、犠牲者がかなり出ます。今回の寄付金に対象を絞ったものにするとその被害はもっと大きなものになるでしょう。

100億あれば、生命科学の世界では、もっと大事なこと、人間の世界を深い意味で高めてくれる数多くの可能性に大きな投資ができます。斬新な新しい科学の可能性に投資を続けるビル・ゲイツに比べて、あまりに貧しい。ユニクロらしいといえばそうなのだけど、日本人としてがっかりします。これをやるなら、大学でなく、ユニクロの中に研究所を作って正規職員として雇用して業務でやってほしい。

日本にはパトロンとして科学を支えるという伝統がありません。科学はほとんど国が支えてきました。芸術も同じ。これがお金持ちの寄付によって大きな発展を遂げてきている欧米との大きな違いです。そういう歴史があるだけ、寄付する側にも高い見識が育ってます。この辺の格差は、こういう学問を取り入れてからの歴史の浅さかもしれません。

企業が儲けたお金をどう使ってもそれは自由ですが、それで若者と、もしかしたらそのサイエンスでできたかもしれない可能性を奪うことになるのであれば、これはよろしくない。両方のプロジェクトも国から膨大な研究費がすでに支給されていて、さらに残りのことをやらせるのは、採用された若者がとても気の毒です。

2020年6月19日金曜日

幸せな日々は長く続かない

これではなんだかわかりませんが、ものすごい希有な瞬間のドラレコの画像です。目の前の右と左の車のナンバープレートに注目。どれくらいの確率で起きるかはわかりませんが、人生に1度あるかどうかということはほぼ確実。
 信号で停まったときに右前の車を見ると、11-11、珍しいなと思って、なにげなく左を見ると、これも同じ11-11。だから何だというのはともかく、空を見ると太陽が2つになってるかもしれないと思ったくらい。めまいがしました。


さて。
幸せな日々は長く続きません。ボブディラン自伝、読み終えてしまいました。半分超えてからはゆっくりゆっくり読んでたのですが。驚くべき作品でした。なるほど、ノーベル文学賞だ。

先に書いたように、レコーディングに入る前のことが書かれていたので、次は奇跡のような作品が生まれる話だろうと思いきや、そんなことは触れられてもおらず。むしろ描かれていたのは、そのあとに訪れた辛い長い日々のこと。

ウッドストックに見つけた美しい静かな住まい、新妻のSaraとの間に生まれた子どもたち、その静かな幸せな日々はつかの間で、バイク事故をいいことに隠匿していたところ、激しい追いかけがはじまり、住んでる家の周りをうろつかれ「巡礼され」、デモ隊が家の前を往復して世代の良心としての義務を果たせと要求され、屋根を登られ、食料庫が荒らされたりする恐怖、そんな中で逃れるように家族と引っ越しを繰り返す、
いつも玄関でワタリガラスが不吉な声を上げていた
そんな辛い日々のことでした。そして、あの奇跡のような作品はもはや遠く、引退のことを考え、もう終わってしまった、という想いを振り払うことができなくなったことが、なんの覆いもなく描かれます。

彼の望んだのは、Saraと3人の子どもたちとの静かな生活。珍しい写真がありました。
https://images.genius.com/cdb98221e4c2586713c629fa02b90795.500x511x1.jpg

たしか80年代だったと思いますが、トム・ペティと18ヶ月に及ぶツアー、イスラエルなど世界を回るツアーの中、彼の書いたのは

これが最後のツアーになるだろう。わたしはもう、やる気をなくしていた。当初感じていたものは、しぼんで消えてしまっていた。トムは絶好調で、私はどん底にいた。彼との差を埋められなかった。何もかもが砕け散った。自作の曲が遠いものになり、私は曲が持つ本質的な力を刺激して生かす技術を失い、上っ面をなぞることしかできなくなってしまった。もう私の時代は終わった。心の中でうつろな声がして、引退してテントをたたむのが待ち遠しかった。
・・・・・
わたしはいままでに多数の曲を作ってレコードにしていたが、ライヴで歌う曲はあまり多くはなかった。たしか20曲程度だったと思う。それ以外の曲は、あまりに暗号めいていたりくらかったりして、わたしにはもう、それらの歌に豊かな創造性を与えて歌う能力がなかった。重たい腐肉の包みを運んでいるも同じだった。それらの歌がどこから生まれたのかがわからなかった。光は消え、マッチ棒は端まで燃え切った。私は形だけの歌と演奏をしていた。いくら努力しても、エンジンはかからなかった。

そしてトム・ペティのバンドのメンバーからはボブ・ディランの昔の曲の数々をリクエストされて、多くの曲をリハーサルしたがっていることに気づかされ、だけどそういう曲はほとんど自分がなぜ作ったかすらわからない、そんな感情に圧倒されてしまい、いたたまれなくなります。

自分が犯罪者のように思えて、その場にいたくなかった。すべてが間違いだったのかもしれない。どこか精神を病むものたちのための場所に行き、よく考える必要がある。

そして雨の中、もう戻らないつもりでスタジオを出て通りを歩いていたとき、年配のシンガーの歌うジャズバーに入ります。そこで、その彼の歌う、「うまれつき賦与された自然な力」が天啓のように彼の元に訪れて自分の歌を新しいやり方で取り戻す、そうやって、ツアーを続ける方法を見つけて、「自動操縦の船に乗っているように」コンサートを続けます。

それでもわたしは辞めるつもりでいた・・・・引退しようと思っていた。これからもツアーを続ける気はなかったし、その気持ちを変えようとも思わなかったーーーどちらにしても、私の音楽を聴きに来る人もたいしていないと思っていた。・・・・私の演奏は一種の演技でしかなく、手順に従って型どおりにやればいいだけの儀式は退屈だった。ペティとのコンサートでも、観客が射撃訓練場の人型の的に見えたことがある

なんとか、歌うための方法を見つけて続け、だけどまたそれが切れて、パニックに襲われる。そんな繰り返し。

ふと思う、昔のこと。

昔、コニーアイランドのビーチで寝そべっていたとき、砂の中からポータブルラジオを見つけたことがある。GE社製の自動充填式の美しいラジオーーー戦艦のようなデザインーだったが壊れていた。それを思い出して、この歌の冒頭に使ってもよかったかもしれない。しかしほかにもたくさんの壊れたものを、私は見てきた・・ボウル、真鍮製のランプ、つぼや瓶や水差し、建物、バス、歩道、木、風景。こうしたものが壊れると心が乱れる。世界中のすばらしいものを、わたしが大きな愛情を抱くものを思い出すのだ。それはひとつの場所ーーそこで夕刻を迎え夜を過ごす場所ーーである場合もある。こういう場所もやがては壊れて、もとにもどすことができなくなる。

レコーディングに向かう、ニューオーリンズでの幻想、

わたしは薄暮の中を歩いていた。空気は黒く濃厚で、それに酔ってしまいそうな感じがした。通りの角のコンクリートのでっぱりに、痩せた大きな猫がうずくまっていた。そばまでいって前で止まっても、動こうとしない。   ・・・中略・・・  ニューオーリンズで最初に目につくのは埋葬地ーーー墓地であり、その冷え冷えとした場所はニューオーリーンズにあるもっともすてきなもののひとつだ。そばを歩くときはできるだけ静かにし、死者の眠りを妨げないようにする。ギリシャ風の墓地、ローマ風の墓、石づくりの埋葬所ーーー特別注文の宮殿のような霊廟。密かに朽ちていくものたちの印やシンボル。罪を犯して死に、今は墓の中で生きる女と男の幽霊たち。ここでは過去は早々には終わらない。ひとは長い間死んでいられる。幽霊たちは光に向かって競争する。どこかに到達しようとする魂たちの激しい息づかいが聞こえてきそうだ。

この本は最後の章で、レコーディング前の話、ミネソタを出るまでの話に戻ります。母のこと、激しい衝撃を受けたウディ・ガスリーの歌との出会い、NYに出て西四番のアパートの狭く、息苦しい部屋で多くの時間を過ごしたスージーのこと。彼の歌がどうやってできてきたかは、この章によく書かれています。ある歌に出会ったときのこと、

この歌の原動力は何なのか、なぜこんなに効果的なのか。私はそれを知ろうとして、分析してみた。そしてこの歌では、すべてのものが最初からそこにあって見えているのに、それがわからないという事に気がついた。何もかもが大きな金具で壁に留めつけてあって明白だったが、各部分をまとめた全体を見るには、一歩後ろに下がって最後まで待たないといけない。

これが彼の歌の作り方。わかりにくく、だけど極めて正確で、いつも景色が残るのはこの方法の故。たとえば、前にも書いた、fourth time around。これは有名な「ノルウェーの森」の返歌のような曲という話は前に書きましたが、これもある物語の各シーンを切り取って歌ったものと思えばわかりやすいかもしれない。あるいは、たぶん、Sad Eyed Lady of the Lowlands、もそう。その世界をさまよい歩くことができる。

中学生の時に感じたことは、不思議なくらい間違っていなかった。たとえばNew Morningというアルバムは1970年に発表された2つのアルバムのうちのひとつ。その前がSelf portraitという、彼も述べてるあらゆるものを詰め込んだもので評判が悪かったそうですが(私はこれは大好き)、そのわずか4ヶ月後に発表されたもの。これはアコースティックな曲が主で、あのBob Dylanが帰ってきたと好評だったそうです。だけど、この自伝によると、じつはこれは元々マクリーシュという高名な(知りませんが)詩人の依頼により書いていた戯曲のための音楽で、結局、彼の期待と合わずに断念して、それらの曲をどんなもんだろうとまとめたアルバムだったらしい。 If dogs run free、こんな曲、と思ってましたが、やっぱりそう。

いつまでも引用を繰り返していたい、だけど、このあたりで。自伝は、3冊書くことを出版社と契約したらしいですが、彼が書くわけもなし。この本は、とてもかけがえのない本になりました。もしこれを読まなかったら。そんな人生は考えたくないくらい。また、個人的には、今読んだからこそ、よかった。これが2006年だと、この本の価値はわからなかったかもしれない。歳を取ってはじめてわかることもあります。

2020年6月13日土曜日

ボブ・ディラン自伝

長らく封印してたので、2005年に出版された自伝は手にしたこともありませんでした。もともと自伝はあんまり好きじゃないし。だけど、先に書いたmurder most foulを何度も聴いて詩を見ていると、一体、彼はどんな人生を生きてきたのか、読みたい気持ちは抑えられません。早速、「日本の古本屋」で調べて500円になってたのを購入。こういう本は古くて、ぼろぼろになってるほうがいい。裁断してaura oneに納まるだけなのでというのはさておいても。

先週配達されて、すぐに、それまで読んでたサマセットモームを放り出して(比喩)、読み出したところです。まったく驚き。確かにあれだけ詩が素晴らしいのだから、文章もいいだろうとは思いましたが。

ニューヨークに出てきた若者があちこちのカフェなどに出入りして、ステージに立たせてもらうようになり、agencyと契約するようになったとき、宣伝用に記事を書いてる広報の担当者にインタビューされてきたとき、彼の望むようなシンガーの像、ホーボーで転々としてきて貨物列車に乗ってやってきたというでっちあげた経歴を話します。そのあとで、彼はこう書きます。

「貨物列車で来たのではなかった。わたしは、五七年型インパラの4ドアセダンに乗って中西部を出てアメリカを横断した。シカゴをさっさとあとにして、けぶった街、曲がりくねる道路、雪に覆われた草原を越えて進み、東に向けていくつもの州境を越えた。オハイオ、インディアナ、ペンシルヴァニア、24時間ぶっ通しのドライヴ、時折ドライヴァーと話をして、あとはほとんどをバックシートで寝て過ごした。」

そう、こうやって、けぶった町、曲がりくねる道路、をインパラに乗ってNYにやってきたのです。すべてがここからはじまった、ここで彼はまるで海綿のようにあらゆるものを吸収し、見聞きしたものを脳に刻み込みます。驚くほどの画像記憶力。

たぶん一番大事だったのは、イジーが経営する小さなお店フォークロアセンターでの時間でした。

「店の奥に、薪を焚くだるまストーブや複製画やぐらぐらする椅子のある部屋があった。その壁には昔の愛国者や英雄の絵がかかり、クロスステッチのデザインの陶器類、ラッカーを塗った黒いロウソクなどの工芸品が多く置いてあった。狭い室内いっぱいにアメリカのレコードがあり、蓄音機もあった。イジーは私をその部屋に招き入れてレコードを聞かせてくれた。私はその部屋で大量のレコードを聞き、巻いて保管されている大昔のフォークの楽譜まで見た。」

彼は、歌へのものすごく強い好奇心があり、ここは宝の部屋だったのでしょう。フォークロアセンターを出て他のシンガーと茶店で話していたとき、彼の耳にはほとんど話が聞こえてませんでした。

「ミルズ・タヴァーンの外は、温度計が零下華氏十度になろうとしていた。行きが空中で凍りついたが、寒くはなかった。わたしはすばらしい光に向かって進んでいる。」

この感覚、なにかやろうとしているときの確信に満ちた若者の気持ち、サイエンスでもそうですが、これがこの世を動かします。

地下に酒屋のある連邦様式の建物のエレベータのない最上階に寝起きしていた頃のこと。

「わたしはベッドの上で起き上がり、あたりを見回した。ベッドとはリビングルームのソファのことで、鉄製のラジエーターからはスチームの熱気が上がってきた。暖炉の上に掛かった額縁の中から、植民地時代のカツラをつけた人物がこちらを見つめている。ソファの近くには縦溝彫りの足に支えられた木製の戸棚、そのそばに丸みのある引き出し付きの楕円形のテーブル、一輪の手押し車のような椅子、跳ね上げ式の物入れがついた紫色の合板の小さなデスク。もとは車のバックシートだったスプリング入りの長いす、丸い背と巻き込むような形の肘当てがついた低い椅子。床にはぶ厚いフランス風のラグ、ブラインドのあいだから射しこむ銀色の光、延々と続く屋根の輪郭にアクセントを添えるペンキ塗りの板壁。」

ほとんどDylan Thomas。

幼い頃の記述から。

「わたしはごく小さい頃から、列車を見て、その音を聞いていた。その光景と音はいつも安心感を与えてくれた。大きな有蓋貨車、鉄鉱石運搬車、貨物車、客車、寝台車。故郷の町では、少なくとも一日のうちの一定の時間帯は、どこに行くにも踏切で止まって、長い列車が通り過ぎるのを待たなくてはならなかった。線路は田舎道と交差していることも、道路に沿って続いていることもあった。遠い列車の音を聞いていると、心が落ち着いた。何も失われたものはなく、故郷と同じ地続きの場所にいて危険はなく、すべてがうまくまとまっているという気持ちになった。」

「通りの向こう側で革のジャケットを着た男が、雪をかぶった黒のマーキュリー・モントクレアのフロントガラスから雪を落としている。その向こうでは、紫の長衣を着た司祭が門を抜け、雪に足を取られながら教会の中庭を歩いて、何かしら大事なお勤めに向かっている。近くでは、ブーツを履いた無帽の女がやっとの事で洗濯物袋を運んでいる。」


この建物の所有者はレイという反体制の知識人。ここでいろんな本を読み、これが彼の物語の素地を作ったのでしょう。彼の歌いたかったのはラジオから流れる45回転盤、ラジオでいつもかかっているようなものでなく、彼によると、堕落した密造酒の売人、我が子をおぼれさせた母親たち、一ガロンあたり五マイルしか走らないキャデラック、洪水、組合の建物の火事、暗闇と川底の死体、でした。

NYに駆り立てたのは歌への強い信念と好奇心でした。彼の故郷の町で州兵訓練用体育館のロビーで歌っていたとき、ゴージャス・ジョージという有名レスラーが、付き人と薔薇を持った女性に囲まれながらまさに豪華にオーラに包まれてステージに登場して時のこと。その前に演奏した彼にひと頃、「いい調子だよ」と云ってくれて

「彼から認められたこと、そこから勇気を得たこと、それだけでその先数年間やっていくのに充分だった。思うところがあってひたすらに何かをやっているとき、そしてだれもその維持に気づいてくれないときに認めてくれる人がいたということ、それだけで充分な場合がある。」

そう、若者にとっては、ほんの一言の励ましが、その大事なときにもらえることが大事、それで一歩を踏み出せます。

それにしても見事な訳です。菅野 ヘッケルという訳者、バイリンガルなのでしょうか。この詩人の回想は、彼の見聞きした世界がどれほど輝きに満ちた、まるで彼の若い頃の歌のように続きます。寝る前までのひとときが再び豊かなものになってきました。


2020年6月10日水曜日

Braveを終了してChromeに

ブラウザをBraveにしたのは昨年の9月、それまで使っていたwaterfoxが、なにかと重くなってきてあきらめて探し回った末の乗り換えでした。Braveは広告ブロックをデフォールトにしていて、Chromeベースなので軽い、ということでの移行でした。サイトからの広告に寄らない、独自の開発を進めてきて、その代わりに承認された広告を時々クリックするとビットコインがもらえるという、独自路線を貫いて、サッカーの国際親善試合でもBraveの立て看が出たり、また、最近とみに利用者が増加してきているブラウザです。

ただ、Braveにすると、リモートデスクトップでつないでブラウジングするというややこしいことをするときにフリーズしがちで、また、リモートデスクトップでなくても、なにか、立ち上げ直さないとフリーズすることが急に増えていて、次第に使いづらさが増えてきてました。

そんな中、Braveは検索時に招待リンク(アフィリエイトコード)へ自動変換される仕組みが埋め込まれていたことが明るみに出て、CEOがこれは仕様なので仕方がないと当初述べたせいか、Braveの開発者の一部が離れて、新たなブラウザBraver Browserを立ち上げるという騒ぎになってます。

とはいってもそれとは実は関係なかったのですが、余りに操作的なトラブルが増えてきたのでBraveを辞めて他のに乗り換えることにしました。どこにしようかと、例によってマニアックなものも調べましたが、その中で一つ気がついたのは、ChromeでもuBlockというアドブロッカーを拡張機能で入れると、Braveと同程度のブロック機能があることです。

これで速さは変わらずに、さらにBraveのちょっとした不便さ、たとえばオリゴDNA合成のサイトにログインするときに名前を覚えてくれないだとか妙な不便さがなく、明らかに妙なフリーズもなく、操作性はChromeのほうが明らかに優位なことがわかりました。

そこでBraveをあきらめて、Chromeに乗り換えた次第。ついでに拡張機能で、以前使っていて便利だったAutoPagerizeというのをつけて、サイトでページ分けがついてるところも、自動的に全部のページを表示してくれる機能も復活させました。以前使ってて、Firefoxからwaterfoxにしたときに忘れてましたが、やはりこれは便利。ただ、昔使っていた、mouseoverでタブを切り替える機能が見つけられませんが。

Braveにはいくらかビットコインを残したままで終了としました。確か、見たときはもし換算するなら、200円くらいになってたような気はします。仮想のものは仮想のままでというところです。

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順番を待つネコ
ネコスケールでのsocial distanceもちゃんととっていて、さすがはうちの長男。