これではなんだかわかりませんが、ものすごい希有な瞬間のドラレコの画像です。目の前の右と左の車のナンバープレートに注目。どれくらいの確率で起きるかはわかりませんが、人生に1度あるかどうかということはほぼ確実。
信号で停まったときに右前の車を見ると、11-11、珍しいなと思って、なにげなく左を見ると、これも同じ11-11。だから何だというのはともかく、空を見ると太陽が2つになってるかもしれないと思ったくらい。めまいがしました。
さて。
幸せな日々は長く続きません。ボブディラン自伝、読み終えてしまいました。半分超えてからはゆっくりゆっくり読んでたのですが。驚くべき作品でした。なるほど、ノーベル文学賞だ。
先に書いたように、レコーディングに入る前のことが書かれていたので、次は奇跡のような作品が生まれる話だろうと思いきや、そんなことは触れられてもおらず。むしろ描かれていたのは、そのあとに訪れた辛い長い日々のこと。
ウッドストックに見つけた美しい静かな住まい、新妻のSaraとの間に生まれた子どもたち、その静かな幸せな日々はつかの間で、バイク事故をいいことに隠匿していたところ、激しい追いかけがはじまり、住んでる家の周りをうろつかれ「巡礼され」、デモ隊が家の前を往復して世代の良心としての義務を果たせと要求され、屋根を登られ、食料庫が荒らされたりする恐怖、そんな中で逃れるように家族と引っ越しを繰り返す、
「いつも玄関でワタリガラスが不吉な声を上げていた」
そんな辛い日々のことでした。そして、あの奇跡のような作品はもはや遠く、引退のことを考え、もう終わってしまった、という想いを振り払うことができなくなったことが、なんの覆いもなく描かれます。
彼の望んだのは、Saraと3人の子どもたちとの静かな生活。珍しい写真がありました。
https://images.genius.com/cdb98221e4c2586713c629fa02b90795.500x511x1.jpg
たしか80年代だったと思いますが、トム・ペティと18ヶ月に及ぶツアー、イスラエルなど世界を回るツアーの中、彼の書いたのは
「これが最後のツアーになるだろう。わたしはもう、やる気をなくしていた。当初感じていたものは、しぼんで消えてしまっていた。トムは絶好調で、私はどん底にいた。彼との差を埋められなかった。何もかもが砕け散った。自作の曲が遠いものになり、私は曲が持つ本質的な力を刺激して生かす技術を失い、上っ面をなぞることしかできなくなってしまった。もう私の時代は終わった。心の中でうつろな声がして、引退してテントをたたむのが待ち遠しかった。
・・・・・
わたしはいままでに多数の曲を作ってレコードにしていたが、ライヴで歌う曲はあまり多くはなかった。たしか20曲程度だったと思う。それ以外の曲は、あまりに暗号めいていたりくらかったりして、わたしにはもう、それらの歌に豊かな創造性を与えて歌う能力がなかった。重たい腐肉の包みを運んでいるも同じだった。それらの歌がどこから生まれたのかがわからなかった。光は消え、マッチ棒は端まで燃え切った。私は形だけの歌と演奏をしていた。いくら努力しても、エンジンはかからなかった。」
そしてトム・ペティのバンドのメンバーからはボブ・ディランの昔の曲の数々をリクエストされて、多くの曲をリハーサルしたがっていることに気づかされ、だけどそういう曲はほとんど自分がなぜ作ったかすらわからない、そんな感情に圧倒されてしまい、いたたまれなくなります。
「自分が犯罪者のように思えて、その場にいたくなかった。すべてが間違いだったのかもしれない。どこか精神を病むものたちのための場所に行き、よく考える必要がある。」
そして雨の中、もう戻らないつもりでスタジオを出て通りを歩いていたとき、年配のシンガーの歌うジャズバーに入ります。そこで、その彼の歌う、「うまれつき賦与された自然な力」が天啓のように彼の元に訪れて自分の歌を新しいやり方で取り戻す、そうやって、ツアーを続ける方法を見つけて、「自動操縦の船に乗っているように」コンサートを続けます。
「それでもわたしは辞めるつもりでいた・・・・引退しようと思っていた。これからもツアーを続ける気はなかったし、その気持ちを変えようとも思わなかったーーーどちらにしても、私の音楽を聴きに来る人もたいしていないと思っていた。・・・・私の演奏は一種の演技でしかなく、手順に従って型どおりにやればいいだけの儀式は退屈だった。ペティとのコンサートでも、観客が射撃訓練場の人型の的に見えたことがある」
なんとか、歌うための方法を見つけて続け、だけどまたそれが切れて、パニックに襲われる。そんな繰り返し。
ふと思う、昔のこと。
「昔、コニーアイランドのビーチで寝そべっていたとき、砂の中からポータブルラジオを見つけたことがある。GE社製の自動充填式の美しいラジオーーー戦艦のようなデザインーだったが壊れていた。それを思い出して、この歌の冒頭に使ってもよかったかもしれない。しかしほかにもたくさんの壊れたものを、私は見てきた・・ボウル、真鍮製のランプ、つぼや瓶や水差し、建物、バス、歩道、木、風景。こうしたものが壊れると心が乱れる。世界中のすばらしいものを、わたしが大きな愛情を抱くものを思い出すのだ。それはひとつの場所ーーそこで夕刻を迎え夜を過ごす場所ーーである場合もある。こういう場所もやがては壊れて、もとにもどすことができなくなる。」
レコーディングに向かう、ニューオーリンズでの幻想、
「わたしは薄暮の中を歩いていた。空気は黒く濃厚で、それに酔ってしまいそうな感じがした。通りの角のコンクリートのでっぱりに、痩せた大きな猫がうずくまっていた。そばまでいって前で止まっても、動こうとしない。 ・・・中略・・・ ニューオーリンズで最初に目につくのは埋葬地ーーー墓地であり、その冷え冷えとした場所はニューオーリーンズにあるもっともすてきなもののひとつだ。そばを歩くときはできるだけ静かにし、死者の眠りを妨げないようにする。ギリシャ風の墓地、ローマ風の墓、石づくりの埋葬所ーーー特別注文の宮殿のような霊廟。密かに朽ちていくものたちの印やシンボル。罪を犯して死に、今は墓の中で生きる女と男の幽霊たち。ここでは過去は早々には終わらない。ひとは長い間死んでいられる。幽霊たちは光に向かって競争する。どこかに到達しようとする魂たちの激しい息づかいが聞こえてきそうだ。」
この本は最後の章で、レコーディング前の話、ミネソタを出るまでの話に戻ります。母のこと、激しい衝撃を受けたウディ・ガスリーの歌との出会い、NYに出て西四番のアパートの狭く、息苦しい部屋で多くの時間を過ごしたスージーのこと。彼の歌がどうやってできてきたかは、この章によく書かれています。ある歌に出会ったときのこと、
「この歌の原動力は何なのか、なぜこんなに効果的なのか。私はそれを知ろうとして、分析してみた。そしてこの歌では、すべてのものが最初からそこにあって見えているのに、それがわからないという事に気がついた。何もかもが大きな金具で壁に留めつけてあって明白だったが、各部分をまとめた全体を見るには、一歩後ろに下がって最後まで待たないといけない。」
これが彼の歌の作り方。わかりにくく、だけど極めて正確で、いつも景色が残るのはこの方法の故。たとえば、前にも書いた、fourth time around。これは有名な「ノルウェーの森」の返歌のような曲という話は前に書きましたが、これもある物語の各シーンを切り取って歌ったものと思えばわかりやすいかもしれない。あるいは、たぶん、Sad Eyed Lady of the Lowlands、もそう。その世界をさまよい歩くことができる。
中学生の時に感じたことは、不思議なくらい間違っていなかった。たとえばNew Morningというアルバムは1970年に発表された2つのアルバムのうちのひとつ。その前がSelf portraitという、彼も述べてるあらゆるものを詰め込んだもので評判が悪かったそうですが(私はこれは大好き)、そのわずか4ヶ月後に発表されたもの。これはアコースティックな曲が主で、あのBob Dylanが帰ってきたと好評だったそうです。だけど、この自伝によると、じつはこれは元々マクリーシュという高名な(知りませんが)詩人の依頼により書いていた戯曲のための音楽で、結局、彼の期待と合わずに断念して、それらの曲をどんなもんだろうとまとめたアルバムだったらしい。 If dogs run free、こんな曲、と思ってましたが、やっぱりそう。
いつまでも引用を繰り返していたい、だけど、このあたりで。自伝は、3冊書くことを出版社と契約したらしいですが、彼が書くわけもなし。この本は、とてもかけがえのない本になりました。もしこれを読まなかったら。そんな人生は考えたくないくらい。また、個人的には、今読んだからこそ、よかった。これが2006年だと、この本の価値はわからなかったかもしれない。歳を取ってはじめてわかることもあります。
信号で停まったときに右前の車を見ると、11-11、珍しいなと思って、なにげなく左を見ると、これも同じ11-11。だから何だというのはともかく、空を見ると太陽が2つになってるかもしれないと思ったくらい。めまいがしました。
さて。
幸せな日々は長く続きません。ボブディラン自伝、読み終えてしまいました。半分超えてからはゆっくりゆっくり読んでたのですが。驚くべき作品でした。なるほど、ノーベル文学賞だ。
先に書いたように、レコーディングに入る前のことが書かれていたので、次は奇跡のような作品が生まれる話だろうと思いきや、そんなことは触れられてもおらず。むしろ描かれていたのは、そのあとに訪れた辛い長い日々のこと。
ウッドストックに見つけた美しい静かな住まい、新妻のSaraとの間に生まれた子どもたち、その静かな幸せな日々はつかの間で、バイク事故をいいことに隠匿していたところ、激しい追いかけがはじまり、住んでる家の周りをうろつかれ「巡礼され」、デモ隊が家の前を往復して世代の良心としての義務を果たせと要求され、屋根を登られ、食料庫が荒らされたりする恐怖、そんな中で逃れるように家族と引っ越しを繰り返す、
「いつも玄関でワタリガラスが不吉な声を上げていた」
そんな辛い日々のことでした。そして、あの奇跡のような作品はもはや遠く、引退のことを考え、もう終わってしまった、という想いを振り払うことができなくなったことが、なんの覆いもなく描かれます。
彼の望んだのは、Saraと3人の子どもたちとの静かな生活。珍しい写真がありました。
https://images.genius.com/cdb98221e4c2586713c629fa02b90795.500x511x1.jpg
たしか80年代だったと思いますが、トム・ペティと18ヶ月に及ぶツアー、イスラエルなど世界を回るツアーの中、彼の書いたのは
「これが最後のツアーになるだろう。わたしはもう、やる気をなくしていた。当初感じていたものは、しぼんで消えてしまっていた。トムは絶好調で、私はどん底にいた。彼との差を埋められなかった。何もかもが砕け散った。自作の曲が遠いものになり、私は曲が持つ本質的な力を刺激して生かす技術を失い、上っ面をなぞることしかできなくなってしまった。もう私の時代は終わった。心の中でうつろな声がして、引退してテントをたたむのが待ち遠しかった。
・・・・・
わたしはいままでに多数の曲を作ってレコードにしていたが、ライヴで歌う曲はあまり多くはなかった。たしか20曲程度だったと思う。それ以外の曲は、あまりに暗号めいていたりくらかったりして、わたしにはもう、それらの歌に豊かな創造性を与えて歌う能力がなかった。重たい腐肉の包みを運んでいるも同じだった。それらの歌がどこから生まれたのかがわからなかった。光は消え、マッチ棒は端まで燃え切った。私は形だけの歌と演奏をしていた。いくら努力しても、エンジンはかからなかった。」
そしてトム・ペティのバンドのメンバーからはボブ・ディランの昔の曲の数々をリクエストされて、多くの曲をリハーサルしたがっていることに気づかされ、だけどそういう曲はほとんど自分がなぜ作ったかすらわからない、そんな感情に圧倒されてしまい、いたたまれなくなります。
「自分が犯罪者のように思えて、その場にいたくなかった。すべてが間違いだったのかもしれない。どこか精神を病むものたちのための場所に行き、よく考える必要がある。」
そして雨の中、もう戻らないつもりでスタジオを出て通りを歩いていたとき、年配のシンガーの歌うジャズバーに入ります。そこで、その彼の歌う、「うまれつき賦与された自然な力」が天啓のように彼の元に訪れて自分の歌を新しいやり方で取り戻す、そうやって、ツアーを続ける方法を見つけて、「自動操縦の船に乗っているように」コンサートを続けます。
「それでもわたしは辞めるつもりでいた・・・・引退しようと思っていた。これからもツアーを続ける気はなかったし、その気持ちを変えようとも思わなかったーーーどちらにしても、私の音楽を聴きに来る人もたいしていないと思っていた。・・・・私の演奏は一種の演技でしかなく、手順に従って型どおりにやればいいだけの儀式は退屈だった。ペティとのコンサートでも、観客が射撃訓練場の人型の的に見えたことがある」
なんとか、歌うための方法を見つけて続け、だけどまたそれが切れて、パニックに襲われる。そんな繰り返し。
ふと思う、昔のこと。
「昔、コニーアイランドのビーチで寝そべっていたとき、砂の中からポータブルラジオを見つけたことがある。GE社製の自動充填式の美しいラジオーーー戦艦のようなデザインーだったが壊れていた。それを思い出して、この歌の冒頭に使ってもよかったかもしれない。しかしほかにもたくさんの壊れたものを、私は見てきた・・ボウル、真鍮製のランプ、つぼや瓶や水差し、建物、バス、歩道、木、風景。こうしたものが壊れると心が乱れる。世界中のすばらしいものを、わたしが大きな愛情を抱くものを思い出すのだ。それはひとつの場所ーーそこで夕刻を迎え夜を過ごす場所ーーである場合もある。こういう場所もやがては壊れて、もとにもどすことができなくなる。」
レコーディングに向かう、ニューオーリンズでの幻想、
「わたしは薄暮の中を歩いていた。空気は黒く濃厚で、それに酔ってしまいそうな感じがした。通りの角のコンクリートのでっぱりに、痩せた大きな猫がうずくまっていた。そばまでいって前で止まっても、動こうとしない。 ・・・中略・・・ ニューオーリンズで最初に目につくのは埋葬地ーーー墓地であり、その冷え冷えとした場所はニューオーリーンズにあるもっともすてきなもののひとつだ。そばを歩くときはできるだけ静かにし、死者の眠りを妨げないようにする。ギリシャ風の墓地、ローマ風の墓、石づくりの埋葬所ーーー特別注文の宮殿のような霊廟。密かに朽ちていくものたちの印やシンボル。罪を犯して死に、今は墓の中で生きる女と男の幽霊たち。ここでは過去は早々には終わらない。ひとは長い間死んでいられる。幽霊たちは光に向かって競争する。どこかに到達しようとする魂たちの激しい息づかいが聞こえてきそうだ。」
この本は最後の章で、レコーディング前の話、ミネソタを出るまでの話に戻ります。母のこと、激しい衝撃を受けたウディ・ガスリーの歌との出会い、NYに出て西四番のアパートの狭く、息苦しい部屋で多くの時間を過ごしたスージーのこと。彼の歌がどうやってできてきたかは、この章によく書かれています。ある歌に出会ったときのこと、
「この歌の原動力は何なのか、なぜこんなに効果的なのか。私はそれを知ろうとして、分析してみた。そしてこの歌では、すべてのものが最初からそこにあって見えているのに、それがわからないという事に気がついた。何もかもが大きな金具で壁に留めつけてあって明白だったが、各部分をまとめた全体を見るには、一歩後ろに下がって最後まで待たないといけない。」
これが彼の歌の作り方。わかりにくく、だけど極めて正確で、いつも景色が残るのはこの方法の故。たとえば、前にも書いた、fourth time around。これは有名な「ノルウェーの森」の返歌のような曲という話は前に書きましたが、これもある物語の各シーンを切り取って歌ったものと思えばわかりやすいかもしれない。あるいは、たぶん、Sad Eyed Lady of the Lowlands、もそう。その世界をさまよい歩くことができる。
中学生の時に感じたことは、不思議なくらい間違っていなかった。たとえばNew Morningというアルバムは1970年に発表された2つのアルバムのうちのひとつ。その前がSelf portraitという、彼も述べてるあらゆるものを詰め込んだもので評判が悪かったそうですが(私はこれは大好き)、そのわずか4ヶ月後に発表されたもの。これはアコースティックな曲が主で、あのBob Dylanが帰ってきたと好評だったそうです。だけど、この自伝によると、じつはこれは元々マクリーシュという高名な(知りませんが)詩人の依頼により書いていた戯曲のための音楽で、結局、彼の期待と合わずに断念して、それらの曲をどんなもんだろうとまとめたアルバムだったらしい。 If dogs run free、こんな曲、と思ってましたが、やっぱりそう。
いつまでも引用を繰り返していたい、だけど、このあたりで。自伝は、3冊書くことを出版社と契約したらしいですが、彼が書くわけもなし。この本は、とてもかけがえのない本になりました。もしこれを読まなかったら。そんな人生は考えたくないくらい。また、個人的には、今読んだからこそ、よかった。これが2006年だと、この本の価値はわからなかったかもしれない。歳を取ってはじめてわかることもあります。