長らく封印してたので、2005年に出版された自伝は手にしたこともありませんでした。もともと自伝はあんまり好きじゃないし。だけど、先に書いたmurder most foulを何度も聴いて詩を見ていると、一体、彼はどんな人生を生きてきたのか、読みたい気持ちは抑えられません。早速、「日本の古本屋」で調べて500円になってたのを購入。こういう本は古くて、ぼろぼろになってるほうがいい。裁断してaura oneに納まるだけなのでというのはさておいても。
先週配達されて、すぐに、それまで読んでたサマセットモームを放り出して(比喩)、読み出したところです。まったく驚き。確かにあれだけ詩が素晴らしいのだから、文章もいいだろうとは思いましたが。
ニューヨークに出てきた若者があちこちのカフェなどに出入りして、ステージに立たせてもらうようになり、agencyと契約するようになったとき、宣伝用に記事を書いてる広報の担当者にインタビューされてきたとき、彼の望むようなシンガーの像、ホーボーで転々としてきて貨物列車に乗ってやってきたというでっちあげた経歴を話します。そのあとで、彼はこう書きます。
「貨物列車で来たのではなかった。わたしは、五七年型インパラの4ドアセダンに乗って中西部を出てアメリカを横断した。シカゴをさっさとあとにして、けぶった街、曲がりくねる道路、雪に覆われた草原を越えて進み、東に向けていくつもの州境を越えた。オハイオ、インディアナ、ペンシルヴァニア、24時間ぶっ通しのドライヴ、時折ドライヴァーと話をして、あとはほとんどをバックシートで寝て過ごした。」
そう、こうやって、けぶった町、曲がりくねる道路、をインパラに乗ってNYにやってきたのです。すべてがここからはじまった、ここで彼はまるで海綿のようにあらゆるものを吸収し、見聞きしたものを脳に刻み込みます。驚くほどの画像記憶力。
たぶん一番大事だったのは、イジーが経営する小さなお店フォークロアセンターでの時間でした。
「店の奥に、薪を焚くだるまストーブや複製画やぐらぐらする椅子のある部屋があった。その壁には昔の愛国者や英雄の絵がかかり、クロスステッチのデザインの陶器類、ラッカーを塗った黒いロウソクなどの工芸品が多く置いてあった。狭い室内いっぱいにアメリカのレコードがあり、蓄音機もあった。イジーは私をその部屋に招き入れてレコードを聞かせてくれた。私はその部屋で大量のレコードを聞き、巻いて保管されている大昔のフォークの楽譜まで見た。」
彼は、歌へのものすごく強い好奇心があり、ここは宝の部屋だったのでしょう。フォークロアセンターを出て他のシンガーと茶店で話していたとき、彼の耳にはほとんど話が聞こえてませんでした。
「ミルズ・タヴァーンの外は、温度計が零下華氏十度になろうとしていた。行きが空中で凍りついたが、寒くはなかった。わたしはすばらしい光に向かって進んでいる。」
この感覚、なにかやろうとしているときの確信に満ちた若者の気持ち、サイエンスでもそうですが、これがこの世を動かします。
地下に酒屋のある連邦様式の建物のエレベータのない最上階に寝起きしていた頃のこと。
「わたしはベッドの上で起き上がり、あたりを見回した。ベッドとはリビングルームのソファのことで、鉄製のラジエーターからはスチームの熱気が上がってきた。暖炉の上に掛かった額縁の中から、植民地時代のカツラをつけた人物がこちらを見つめている。ソファの近くには縦溝彫りの足に支えられた木製の戸棚、そのそばに丸みのある引き出し付きの楕円形のテーブル、一輪の手押し車のような椅子、跳ね上げ式の物入れがついた紫色の合板の小さなデスク。もとは車のバックシートだったスプリング入りの長いす、丸い背と巻き込むような形の肘当てがついた低い椅子。床にはぶ厚いフランス風のラグ、ブラインドのあいだから射しこむ銀色の光、延々と続く屋根の輪郭にアクセントを添えるペンキ塗りの板壁。」
ほとんどDylan Thomas。
幼い頃の記述から。
「わたしはごく小さい頃から、列車を見て、その音を聞いていた。その光景と音はいつも安心感を与えてくれた。大きな有蓋貨車、鉄鉱石運搬車、貨物車、客車、寝台車。故郷の町では、少なくとも一日のうちの一定の時間帯は、どこに行くにも踏切で止まって、長い列車が通り過ぎるのを待たなくてはならなかった。線路は田舎道と交差していることも、道路に沿って続いていることもあった。遠い列車の音を聞いていると、心が落ち着いた。何も失われたものはなく、故郷と同じ地続きの場所にいて危険はなく、すべてがうまくまとまっているという気持ちになった。」
「通りの向こう側で革のジャケットを着た男が、雪をかぶった黒のマーキュリー・モントクレアのフロントガラスから雪を落としている。その向こうでは、紫の長衣を着た司祭が門を抜け、雪に足を取られながら教会の中庭を歩いて、何かしら大事なお勤めに向かっている。近くでは、ブーツを履いた無帽の女がやっとの事で洗濯物袋を運んでいる。」
この建物の所有者はレイという反体制の知識人。ここでいろんな本を読み、これが彼の物語の素地を作ったのでしょう。彼の歌いたかったのはラジオから流れる45回転盤、ラジオでいつもかかっているようなものでなく、彼によると、堕落した密造酒の売人、我が子をおぼれさせた母親たち、一ガロンあたり五マイルしか走らないキャデラック、洪水、組合の建物の火事、暗闇と川底の死体、でした。
NYに駆り立てたのは歌への強い信念と好奇心でした。彼の故郷の町で州兵訓練用体育館のロビーで歌っていたとき、ゴージャス・ジョージという有名レスラーが、付き人と薔薇を持った女性に囲まれながらまさに豪華にオーラに包まれてステージに登場して時のこと。その前に演奏した彼にひと頃、「いい調子だよ」と云ってくれて
「彼から認められたこと、そこから勇気を得たこと、それだけでその先数年間やっていくのに充分だった。思うところがあってひたすらに何かをやっているとき、そしてだれもその維持に気づいてくれないときに認めてくれる人がいたということ、それだけで充分な場合がある。」
そう、若者にとっては、ほんの一言の励ましが、その大事なときにもらえることが大事、それで一歩を踏み出せます。
それにしても見事な訳です。菅野 ヘッケルという訳者、バイリンガルなのでしょうか。この詩人の回想は、彼の見聞きした世界がどれほど輝きに満ちた、まるで彼の若い頃の歌のように続きます。寝る前までのひとときが再び豊かなものになってきました。
先週配達されて、すぐに、それまで読んでたサマセットモームを放り出して(比喩)、読み出したところです。まったく驚き。確かにあれだけ詩が素晴らしいのだから、文章もいいだろうとは思いましたが。
ニューヨークに出てきた若者があちこちのカフェなどに出入りして、ステージに立たせてもらうようになり、agencyと契約するようになったとき、宣伝用に記事を書いてる広報の担当者にインタビューされてきたとき、彼の望むようなシンガーの像、ホーボーで転々としてきて貨物列車に乗ってやってきたというでっちあげた経歴を話します。そのあとで、彼はこう書きます。
「貨物列車で来たのではなかった。わたしは、五七年型インパラの4ドアセダンに乗って中西部を出てアメリカを横断した。シカゴをさっさとあとにして、けぶった街、曲がりくねる道路、雪に覆われた草原を越えて進み、東に向けていくつもの州境を越えた。オハイオ、インディアナ、ペンシルヴァニア、24時間ぶっ通しのドライヴ、時折ドライヴァーと話をして、あとはほとんどをバックシートで寝て過ごした。」
そう、こうやって、けぶった町、曲がりくねる道路、をインパラに乗ってNYにやってきたのです。すべてがここからはじまった、ここで彼はまるで海綿のようにあらゆるものを吸収し、見聞きしたものを脳に刻み込みます。驚くほどの画像記憶力。
たぶん一番大事だったのは、イジーが経営する小さなお店フォークロアセンターでの時間でした。
「店の奥に、薪を焚くだるまストーブや複製画やぐらぐらする椅子のある部屋があった。その壁には昔の愛国者や英雄の絵がかかり、クロスステッチのデザインの陶器類、ラッカーを塗った黒いロウソクなどの工芸品が多く置いてあった。狭い室内いっぱいにアメリカのレコードがあり、蓄音機もあった。イジーは私をその部屋に招き入れてレコードを聞かせてくれた。私はその部屋で大量のレコードを聞き、巻いて保管されている大昔のフォークの楽譜まで見た。」
彼は、歌へのものすごく強い好奇心があり、ここは宝の部屋だったのでしょう。フォークロアセンターを出て他のシンガーと茶店で話していたとき、彼の耳にはほとんど話が聞こえてませんでした。
「ミルズ・タヴァーンの外は、温度計が零下華氏十度になろうとしていた。行きが空中で凍りついたが、寒くはなかった。わたしはすばらしい光に向かって進んでいる。」
この感覚、なにかやろうとしているときの確信に満ちた若者の気持ち、サイエンスでもそうですが、これがこの世を動かします。
地下に酒屋のある連邦様式の建物のエレベータのない最上階に寝起きしていた頃のこと。
「わたしはベッドの上で起き上がり、あたりを見回した。ベッドとはリビングルームのソファのことで、鉄製のラジエーターからはスチームの熱気が上がってきた。暖炉の上に掛かった額縁の中から、植民地時代のカツラをつけた人物がこちらを見つめている。ソファの近くには縦溝彫りの足に支えられた木製の戸棚、そのそばに丸みのある引き出し付きの楕円形のテーブル、一輪の手押し車のような椅子、跳ね上げ式の物入れがついた紫色の合板の小さなデスク。もとは車のバックシートだったスプリング入りの長いす、丸い背と巻き込むような形の肘当てがついた低い椅子。床にはぶ厚いフランス風のラグ、ブラインドのあいだから射しこむ銀色の光、延々と続く屋根の輪郭にアクセントを添えるペンキ塗りの板壁。」
ほとんどDylan Thomas。
幼い頃の記述から。
「わたしはごく小さい頃から、列車を見て、その音を聞いていた。その光景と音はいつも安心感を与えてくれた。大きな有蓋貨車、鉄鉱石運搬車、貨物車、客車、寝台車。故郷の町では、少なくとも一日のうちの一定の時間帯は、どこに行くにも踏切で止まって、長い列車が通り過ぎるのを待たなくてはならなかった。線路は田舎道と交差していることも、道路に沿って続いていることもあった。遠い列車の音を聞いていると、心が落ち着いた。何も失われたものはなく、故郷と同じ地続きの場所にいて危険はなく、すべてがうまくまとまっているという気持ちになった。」
「通りの向こう側で革のジャケットを着た男が、雪をかぶった黒のマーキュリー・モントクレアのフロントガラスから雪を落としている。その向こうでは、紫の長衣を着た司祭が門を抜け、雪に足を取られながら教会の中庭を歩いて、何かしら大事なお勤めに向かっている。近くでは、ブーツを履いた無帽の女がやっとの事で洗濯物袋を運んでいる。」
この建物の所有者はレイという反体制の知識人。ここでいろんな本を読み、これが彼の物語の素地を作ったのでしょう。彼の歌いたかったのはラジオから流れる45回転盤、ラジオでいつもかかっているようなものでなく、彼によると、堕落した密造酒の売人、我が子をおぼれさせた母親たち、一ガロンあたり五マイルしか走らないキャデラック、洪水、組合の建物の火事、暗闇と川底の死体、でした。
NYに駆り立てたのは歌への強い信念と好奇心でした。彼の故郷の町で州兵訓練用体育館のロビーで歌っていたとき、ゴージャス・ジョージという有名レスラーが、付き人と薔薇を持った女性に囲まれながらまさに豪華にオーラに包まれてステージに登場して時のこと。その前に演奏した彼にひと頃、「いい調子だよ」と云ってくれて
「彼から認められたこと、そこから勇気を得たこと、それだけでその先数年間やっていくのに充分だった。思うところがあってひたすらに何かをやっているとき、そしてだれもその維持に気づいてくれないときに認めてくれる人がいたということ、それだけで充分な場合がある。」
そう、若者にとっては、ほんの一言の励ましが、その大事なときにもらえることが大事、それで一歩を踏み出せます。
それにしても見事な訳です。菅野 ヘッケルという訳者、バイリンガルなのでしょうか。この詩人の回想は、彼の見聞きした世界がどれほど輝きに満ちた、まるで彼の若い頃の歌のように続きます。寝る前までのひとときが再び豊かなものになってきました。