何をいっても無駄だというあきらめ、そんな無力感、最初からのあきらめ。これが特に日本の若い人たちの間で広がってるような感じがします。子供でもわかるような明らかな矛盾があるのに、都合の悪いことは認めない、一般人はできなくても、それができる権限があるならば、堂々とやってしまう、それを恥ずかしいと思うことすらない、そんな政権をもつ社会にこれから出て行こうという若者に、希望を持てといわれても持てるわけもありません。
新型コロナの対応をめぐる政府のやり方を見ていると、特にこれを感じます。沈着冷静で知られるドイツのメルケル首相が、あれだけ強い言葉で大きな身振り手振りで全身で感情を込めて国民に年末の過ごし方を訴えかけているのに、この国では総理大臣が、ニコ動で、これから検討するところです、と知り合いの報道関係者にこやかに答えることしかしない。トップに立つべき人と、そうすべきでない人の違いがあまりに鮮明でした。もしかするとドイツの若者はメルケルさんのようにはなりたいと思っても、日本の若者は総理大臣ですらあれくらいしかなれない、と思ってしまうでしょう。トップは大事なのです。なってみないとわからないということもあります。
新型コロナの診療に関わる医師に聞くと、この病気は、これまでの診療の常識が通用せず恐ろしい、といいます。肺炎が治まりそろそろ退院かと思ってレントゲン撮ると肺がまた白くなってる、ひょっとしてどこかでミスったのではないかと青くなってカルテを見直すことも珍しくないとか。軽症だったのにいきなり亡くなってしまう例も珍しくありません。医師だけでなく、転職の自由の効く看護師が辞めていくのを責めることはできません。
新型コロナにかかった場合、本来の担当は呼吸器内科です。だけど呼吸器内科は大抵は人数が少ない科で、呼吸器内科の医師がいない病院も大きな市町村であってもよくあります。福島だといわき市とか。ただ、この病気では呼吸器内科医が診てもできることは大体決まっているので、各病院にプロトコールを送り、救急など各科でそれに沿って緊急対応しています。ほかの病気ではこんなことはありません。極めて異常な事態です。医師は、ベテランであるほど専門外のことをさせられていることに大きなストレスを感じています。
大災害になってる大阪。医療機関にコロナ対応にしてくれとお金を積んでます。これまで大阪では医療従事者の育成は軒並み削減していて、代わりに政治ゲームにうつつを抜かし、この時期に住民投票に膨大な費用と人力をつぎ込み、結果、自分たちの好きなようにはならなかったら、政治ができたことに満足した、というコメントを残しました。そんな為政者のいうことに医療機関が本気で従うわけもありません。ただその政治家は住民が選んだわけで、現在の医療危機、既に失われてしまった多くの人の命は自らの選択ではあります。
政府は、自分たちの支持基盤が観光業、飲食店業界なので、GO TOを取り下げないことに不思議はありません。それより恐ろしいのは、そう上からいわれればどんな情況でも政府のいう事に素直に従って、脳天気に観光地をめぐり忘年会をする国民の方です。確かに、いつの時代でも国はいつでもそういう何も考えない国民を育てようとしてきました。日本学術会議会員で政府に反対した委員には新任を拒否したのはそのわかりやすい例。だけど、多くの先生たちはそんな中でも、いつの時代でも、学生には自ら考え、判断して行動するようにと教育してきたはず。戦争もこうやってはじまったのかと、うすら寒い思いがします。